豊かな自然に囲まれた懐かしい土地に立つ七栗サナトリウムへ

icon 藤田保健衛生大学 学長 黒澤 良和icon 

 私は、昭和60年4月から藤田保健衛生大学総合医科学研究所にお世話になっnakanishiています。藤田啓介先生にとっては、昭和39年に藤田学園を創立後、医学部や第一附属病院の創設、その拡充等困難な大事業がやっと軌道に乗り、医療系総合大学として更にユニークな特色を大学にもたらそうとする試みの中で作られた施設として、総合医科学研究所と七栗サナトリウムは同時期に作られた仲間同士と言えそうです。私は昭和22年に三重県津市高茶屋で生まれ18歳まで同じ場所に住んでいましたから、七栗(私どもにとっては榊原温泉)は非常に身近な存在でした。大事なお客さんが来ると、私の父は接待のために榊原温泉へ泊りがけで出かけたものです。津から西を眺めると、近くに長谷山(320m)が見え、少し離れて経が峰(819m)が、また青山高原が連なって見えます。小学生の時は、雲出川や風早池が遠足の目的地でした。中学生時代には、食虫植物で知られた毛氈苔の生える赤池などに時々自転車で出かけました。高校時代は山岳部に所属していましたからトレーニングとして長谷山の頂上までマラソンをしました。私が今でも記憶するここに列記した地名を地図で確認しますと、その緑豊かな環境のど真ん中に七栗サナトリウムは立っています。
 名古屋大学で助手をしていた私に、新しく作る研究所の教授として来ないかというお誘いがあったのは私が37歳の時でした。藤田先生は巨大な寺院を連想させる大きな屋根を持つ研究所(現在は地震で崩壊する危険があるそうですが、その当時私にはそのように見えました)で若い学生諸君と研究をしながら理事長・学長業務をこなし、疲れると庭に出て音楽を聴き、広い芝生の庭を挟んだ一角に住まわれていると聞きました。お誘いがあって直後に、誰に相談することもなく七栗へ出かけて行き、その敷地を歩き,鳥の声を聴きながら、このような環境で暮らす方とは親しくなれるに違いないと感じて、藤田学園にお世話になることを決意しました。私にとってあれから27年以上の年月が経過しました。
 それから10年間、藤田先生の絶大な庇護の下、研究テーマを探し続けた日々でした。藤田先生は平成7年6月に急逝されてしまいましたが、私に取りましては開発されて間もないファージ抗体ライブラリ―技術の導入、日本国家による科学技術への巨額研究費投入方針の採用(1996年)も後押しして、15年以上にわたって癌と感染症に対する治療用抗体薬開発という研究テーマに取り組むことができました。少しずつゴールの全体像が見通せるようになってきた中で、昨年4月に学長就任という大役を仰せつかることになりました。それから一年余、学長業と研究者業を何とかこなす日々を送っています。
 七栗サナトリウムは,才能豊かな園田病院長と東口教授の指導の下、回復期リハビリテーションと緩和ケアを二本柱とした特色ある病院として広く社会に認知される存在となっています。七栗サナトリウムは、非常に優れた自然環境に囲まれています。この自然環境と病院で行われている治療内容が実によくマッチしています。私自身の体験からも書きましたように、三重県とりわけ津の住人にとりまして榊原温泉を取り巻く環境への印象は実に良いものです。榊原温泉にある旅館の多くが長い年月を経て未だに地元の人に愛されていることを見てもよくわかります。七栗サナトリウムがこの利点を上手に取り入れて地元から愛され信頼される存在としてより発展すると信じます、少子高齢化に代表される日本の問題は、すべての日本人にとって受け入れて共に生きることが必要な課題です。その一つの解決法を示す存在として発展されることを心から願っています。

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