七栗 恋し

icon 元病院長 森 日出男 icon 

nakanishi

  記念誌へのお誘い、ありがとう。もう25年になるんだな、七栗を離れて既に10数年たつのだなと感慨一入です。十分な成果も挙げ得ずに自ら身を引いた私にとって、この寄稿にためらいましたが、当院開設時の諸々の難行苦行を知ってもらうのも無駄ではあるまいと思い、老化でふるえる手に思いを込めて書くことにしました。
当院初期のパンフレットの1〜2頁に、今は亡き藤田啓介総長先生の「湯本・七栗の湯」として詳細な歴史的考察と共に、当院にこめられた思いにも触れられている。具体的には、七栗一帯を4つのゾーンに分けての開発構想(その詳細な図面は残っているはず)を長年にわたって暖め続けられ、その中の保健療養ゾーンとして当院の開設が位置づけられていた。即ち、病院設置のみ単独で考えられていたわけではなかった。
 いずれにせよ、その病院の誕生は実に難産であり、先生も半ばあきらめかけておられた。それは県や市(当時は久居市)、各議会、保健所からは、三重県の病床充足率は充分であり、これ以上は不要であると、更には地元医師会の猛反対があり、そこへもって地区住民からは、この一帯が汚染されるとの反対が強く、四面楚歌の状態にあり、しばし手つかずのままで経過していた。
開設の命を受けて約1年間、前述の要所要所を細かく繰り返し廻り、開設の意義・あり方など説明し続けた。この間のいきさつは、職員もよく知らないであろう。
その甲斐あって漸く了解ができ、開院にこぎつけたが、それも当初は3年間は100床でやるよう制限をつけられた。しかし1年経過したところで、地元医師会長より、もう全床開設したらとの話が出て、2年早く病院全体に灯がつくことになった。早速不足がちな要員配置を行い開床を進めたが、全員喜びのもとで文句もなく業務を進められたのは幸いであり、感謝するばかりであった。
更にはリハビリテーション、東洋医学と疼痛学、ホスピス、それらの担当医師の導入にもいろいろと経緯があったが、招聘後は本当によく協力していただき感謝々々である。
創始者藤田先生が、よく「私が死んだあとも、七栗はいつも若者の声が満ち、あかあかと灯りがともる地であってほしい」とおっしゃった言葉が、今も心に残っている。
 私にとって藤田学園での最後の開設業務となった七栗サナトリウム。苦労を共にしてくれた職員への思いは、なつかしさと共に老後の日々を満たしてくれている。職員への年賀状には、いまだに「病院をよろしく」と書く私である。
曼珠沙華の花群れる道、広がる青田・水田、蛙の鳴き声、赤トンボの群、玄関前の鯉、それに道で出会った人達から声をかけられ、戴いた梨やイモ、七栗はふるさとを恋う以上になつかしく、今は無為の老いの日のなぐさめになっています。
10年余の在職中、院長室のソファーで寝泊まりを続けた私でしたが、それが一番安堵できて落ちつける日々でした。「ゆりか」1994年秋号の6〜8頁に、私の思いのたけを書いています。亡き藤田総長先生そして七栗、職員諸君、「お陰さまで」そして「ありがとう」そして近い将来「さようなら」です。
 生かされて生きる自分であることを意識して、今を精一杯に生きることが老後を満たしてくれるのです。後期高齢者という老人の思いです。私の最後は七栗にしようかなと、冗談のような、本気のような。その節はどうぞよろしく。

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