七栗サナトリウム25年間を振り返って

icon 藤信興産 部長 中西 幸喜 icon 

 七栗サナトリウム25周年記念誌発行おめでとうございます。
 発行の労をお取りいただきました園田病院長、川出事務部長、編集委員の皆さまに敬意を表します。
 今、手元に「創設者 藤田啓介−激動の四十年 熱意と人となり」を置き藤田学園の歴史を辿りながら七栗サナトリウムが歩んできた道を振り返っております。
 そもそも、七栗サナトリウムは藤田啓介総長がドイツの「バーデン・バーデン」に倣って七栗の地に温泉を利用した研究施設、病院、老人保健施設、図書館、プール、テニスコート、ゴルフ場等の一大ヘルスリゾート地を作るための核になる施設と聞いており、七栗サナトリウムの売店は「バーデン・バーデン」であり、七栗サナトリウムの職員ゴルフコンペは「バーデン・バーデン杯」と呼ばれています。第65回大会は「総長顕彰の日」である6月11日に行われました。
 私は、七栗サナトリウムに病院開設の昭和62年4月より24年6か月在籍し、平成23年10月に法人本部人事部へ異動、平成24年4月に藤信興産に出向し現在に至っております。
 思い起こせば七栗サナトリウムでの在職期間は蜜のような時間だったと思います。
その中でも、私の記憶に残る8つの事柄を挙げてみたいと思います。
 まず1番目は教職員が一丸となって取り組んだリハビリテーションセミナーと緩和ケアセミナーが挙げられます。
 リハビリテーションセミナーは75回の開催を数え、緩和ケアセミナーも20回の開催となり三重県内外の医療職を中心としたセミナー参加者に大変好評であり、同時に教職員の資質を高める一助となっています。
 こういった一つ一つの積み重ねが、輝く明日の七栗サナトリウムを作り上げていくと確信しています。
 2番目は昭和62年12月に3階病棟100床が開設許可となり現在の218床体制になったことです。昭和62年4月の開設当時は地元医師会から同意を得られず118床で開設しましたが、8か月で全床稼働できたことは森院長はじめ多数の方の努力の賜物と思います。
 3番目は平成9年7月1日に1階病棟18床が緩和ケア病棟に承認されたことです。
 この意義は、全国の大学附属病院の中で初めて承認されたことと、昭和62年の開設当時に緩和ケアを実践していたのは大阪の淀川キリスト教病院と浜松の聖隷三方原病院くらいのもので、癌終末期の患者さんの治療を想定して全室個室とし、専用の病棟を考えられた藤田啓介総長の先見性と独創性を証明する事実と捉えます。
 4番目は平成10年4月に久居市(当時)の指定を受け在宅介護支援センターを開設したことです。
 在宅介護支援センターは市役所に代わって独居老人や介護を必要とする状態にある方の相談・援助を行う機関で、平成12年に施行された介護保険で登場する居宅介護支援事業所と同様に、重要な位置づけがなされています。現在も七栗サナトリウムは両方の機関を運営していて地域の医療・福祉の充実やネットワークの構築に貢献しています。
 これまでは行政や地域との結びつきが弱くどちらかというと内向きの組織でしたが、この頃を境に外に目を向ける組織に変わっていったように思います。
 5番目は平成11年11月に開設されたデイケア(通所リハビリ)開設です。
 この開設により地域との関わりが強くなり、経営的にも外来患者や入院患者の獲得に大いに貢献したと考えます。
 6番目は平成13年5月の回復期リハビリテーション病棟の開設です。
 回復期リハビリテーション病棟の承認により患者の安定的な獲得と他の科への波及効果を考えると七栗サナトリウムが黒字の病院になる最大の転換期と考えます。
 更に、回復期リハビリテーション病棟の斬新的な病室と訓練室のレイアウトや24時間365日の訓練を謳うFITプログラムは七栗サナトリウムを全国レベルのリハビリ病院に押し上げたと考えます。
 7番目は平成16年から継続して受審している日本医療機能評価機構による認定ですが、一般病院、リハビリテーション付加機能、緩和ケア付加機能の3つの認定を受けている病院は全国的にも珍しいと思います。
 このことから、七栗サナトリウムが大学附属の教育病院でありながらもリハビリや緩和ケアに特化した特色ある医療を提供していることが理解できます。
 そして、最後になりましたが平成元年に外科の初代教授だった市橋秀仁先生がお亡くなりになったことです。先生は外科医としての腕は超一流であり、さらに写真の腕前もプロ級で、七栗の四季の移ろいを撮影された写真集「七栗讃歌」を自費出版されました。市橋教授がご存命であれば七栗サナトリウムの方向性は違ったものになったと思います。
 以上、私の中で特に印象の深い事柄を記載しましたが、七栗サナトリウムは藤田啓介総長が生薬研究塾(現藤田記念七栗研究所)にお見えになったこともあり、非常に恵まれた環境であったと思います。総長先生がお亡くなりになって17年経過し、七栗サナトリウムを取り巻く環境も変化してきましたが、七栗サナトリウムが培ってきた優しさや思いやりは、総長先生が言われた「われら弱き人々へ無限の同情心もて、片時も自己に驕ることなく医を行わん」に集約されます。
 これからも、七栗サナトリウムが藤田学園の一員として発展し続けることを祈念しまして、ペンを置かせていただきます。

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