<精神疾患とゲノムについての説明文書>
この説明文章は「遺伝子解析による精神疾患の病態生理・発症脆弱性・治療反応性・副作用脆弱性等の解明に関する連鎖および関連研究」についてご協力をお願いする方々のために,精神疾患と遺伝子との関係について簡単に御説明した冊子です。もし,おわかりになりにくい点等がありましたら,どうぞ遠慮なく担当の医師等にお尋ね下さい。
《遺伝子とは》
遺伝子とは人間の身体をつくる設計図に相当するものです。ヒトには10万個以上の遺伝子があると考えられています。人間の身体は,約60兆個の細胞と呼ばれる基本単位からなっていますが,この細胞の核と呼ばれる部分に遺伝子の実体となる物質であるDNAが存在しています。人間の身体は,この遺伝子の指令に基づいて維持されています。
「遺伝」という言葉は,「親の体質が子に伝わること」を言います。ここでいう「体質」の中には,顔かたち,体つきのほか,性格や病気にかかりやすいことなども含まれます。ある人の体の状態は,遺伝とともに,生まれ育った環境によって決まってしまいますが,遺伝は基本的な部分で人の体や性格の形成に重要な役割を果たしています。「遺伝」という言葉に「子」という字が付き「遺伝子」となりますと,「遺伝を決定する小単位」という科学的な言葉になります。人間の場合,約3万2千個の遺伝子が働いていますが,その本体は「DNA」という物質です。「DNA」は,A,T,G,Cという四つの印(塩基)の連続した鎖です。印は,一つの細胞の中で約30億個あり,その印がいくつかつながって遺伝子を司っています。このつながりが遺伝子です。一つの細胞の中には約3万個の遺伝子が散らばって存在しています。この遺伝情報を総称して「ゲノム」という言葉で表現することもあります。人間の体は,60兆個の細胞から成り立っていますが,細胞の一つ一つにすべての遺伝子が含まれています。
遺伝子には二つの重要な働きがあります。一つは,遺伝子が精密な「人体の設計図」であるという点です。受精した一つの細胞は,分裂を繰り返してふえ,一個一個の細胞が,「これは目の細胞」,「これは腸の細胞」と決まりながら,最終的には60兆個まで増えて人体を形作りますが,その設計図はすべて遺伝子に含まれています。第2の重要な役割は「種の保存」です。両親から子供が生まれるのもやはり遺伝子の働きです。人類の先祖ができてから現在まで「人間」という種が保存されてきたのは,遺伝子の働きによっています。
《遺伝子と病気》
こうした非常に大事な役割を持つ遺伝子の違いはさまざまな病気の原因になります。ある遺伝子に生まれつき違いがある場合には,その違いが子,孫へと伝わってしまいます。この場合,遺伝する病気が出てくる可能性が生じます。このように説明すると,遺伝子の変化が必ず病気を引き起こすと思われるかもしれません。事実は遺伝子の変化が病気を引き起こすことはむしろきわめてまれなことと考えられています。たとえば,一人一人の顔や指紋が違っているのと同じように人によって生まれつき遺伝子に違いが見られ,その大部分は病気との直接の関わりがないことがわかってきました。また,人体を形作る60兆個の細胞では頻繁に遺伝子の変化が起きていますが,そのほとんどは病気との関わりがありません。遺伝子の変化のうちごく一部の変化のみが病気を引き起こし,遺伝する病気として気が付かれるのだと思われます。
ほとんどすべての病気は,その人の生まれながらの体質(遺伝素因)と病原体,生活習慣などの影響(環境因子)の両者が組合わさって起こります。遺伝素因と環境因子のいずれか一方が病気の発症に強く影響しているものもあれば,がんや動脈硬化などのように両者が複雑に絡み合って生じるものもあります。遺伝素因は遺伝子の違いに基づくものですが,遺伝子の違いがあればいつも病気になるわけではなく,環境因子が重要な役割を担っている場合もあります。また,病気を引き起こす環境因子への反応の違いが遺伝子の性質によって決まることも多く,一見遺伝しないように見える多くの病気が遺伝子の違いに起因することも分かってきています。
《遺伝病における原因遺伝子解析研究の特徴》
遺伝子には,「人体の設計図」,「種の保存」という二つの重要な役割があることをすでに述べました。ある病気の原因となる遺伝子に生まれつきの違いが生じている場合には,この二つの役割に応じた遺伝子解析研究の有用性が考えられます。まず,原因となる遺伝子の生まれつきの違いを持つ人では,将来かかる病気を予測することが可能となり,その情報をもとに,病気を予防したり,早期発見をすることができます。また,患者さんの血縁者の中から患者さんを見つけだし,予防につとめ,また早期発見,早期治療により病気を治すことが可能となります。しかし,健康な人に対し,将来病気になる危険性のあることを告げたり,あるいは一人の患者さんの診療によって,その家族の遺伝病を予測してしまうというようなことは,従来の医療には見られなかったことであり,このために,将来の発病に対する不安,就職・結婚・生命保険加入などへの影響,家族の中での不安など,新たな倫理的,法的,社会的問題が生じています。
《精神疾患と遺伝子》
精神分裂病や気分障害(躁うつ病)などの精神疾患に遺伝的要因の関与していることは,これまでの家系研究,双生児研究,養子研究などの臨床遺伝学的研究から明らかにされており,同じ家系内に精神疾患の罹患者が存在する場合,その罹患者が近親であればあるほど,その人の発症危険性は高くなるという知見が集積されており,これらの知見を基に,精神分裂病や気分障害(躁うつ病)等の精神疾患についてはその発症の原因となる,あるいはそれに関連する遺伝子を見出そうとする遺伝子解析研究の試みが現在世界中で行われています。しかしこれまでにこれらの精神疾患の原因遺伝子あるいは感受性遺伝子を同定するために数多くの研究が精力的になされてきたにもかかわらず,精神疾患については原因であると特定できるような遺伝子は見出されておりません。これまでの研究で得られた他の知見としては,たとえば同じ遺伝子をもつ一卵性双生児を例にとると,そのうちの1人が精神分裂病に罹患した場合に,もう1人の双生児が精神分裂病に罹患する確率は約50%と報告されています。これは精神分裂病の発症率が1%にも満たない一般人口集団と比べると随分高い値であることは事実ですが,それでも100%の一致率ではありませんので,精神分裂病の発症には遺伝要因だけではなく,環境要因も重要な役割を果たしていることが知られています。気分障害(躁うつ病)についても同様の研究結果が報告されています。このように精神疾患の多くは,一般的にその人の生まれながらの体質(遺伝素因)と生活習慣などの影響(環境因子)との両者が複雑に組み合わさって生じていると考えられています。遺伝素因と環境因子のいずれか一方が病気の発症に強く影響しているものもあれば,両者が複雑に絡み合って生じるものもあると考えられています。
《遺伝性の病気》
遺伝性疾患とは,遺伝子の違いによる病気をいいます。これには,親が遺伝子の違いを持っていて,その違いが子に伝わる(いわゆる遺伝する)場合と,親の遺伝子にはまったく違いがないにも関わらず,精子や卵子の遺伝子に突然変異が生じて病気になる場合とがあります。これに対して,身体を構成する細胞に遺伝子の違いが生じて,がんやその他の病気になることがありますが,この場合には病気が子孫に伝わることはなく,遺伝性疾患という言葉は使いません。遺伝子に違いがあっても必ずしも病気になるわけではありません。人間には染色体が2本(1対)ずつあり,1本の染色体の遺伝子に違いが起きても違いが起きていないもう一方の遺伝子が機能を補って病気になるのを防いでいます。また,遺伝子の違いが身体機能の異常につながらないこともあります。一方,病気を引き起こす環境因子への反応の違いが遺伝子の性質によって決まることも多いので,一見遺伝しないように見える多くの病気が遺伝子の違いに起因することも分かってきました。精神疾患の多くは遺伝要因のみならず,その発症には環境要因も関与した複雑なものであることが知られています。