「藤田保健衛生大学七栗サナトリウムでの思い出」
 藤田保健衛生大学七栗サナトリウム 関 聰介

 
「先生,近々結婚する予定とかある?」「いえ,特に無いです.」「じゃあ4月から三重の方へ行ってもらいます.藤田のリハ科,才藤先生のところね.」このような感じで2001年11月下旬頃,当時私が所属していた川崎医科大学リハビリテーション科椿原教授との間で,2002年4月からの人事異動の話し合いがされました.これは椿原教授がリハ医として1年目をスタートさせたばかりの私に,「是非,若いうちにリハビリテーション医学の臨床および研究の経験が数多く積める施設で研修を」との御配慮と,才藤教授・園田教授が快く受け入れて下さったことで実現しました.

 椿原教授から異動先に指定された病院は三重県の七栗サナトリウム,名前はリハビリ関連の雑誌で少し見たことはありましたが,臨床の内容など詳細はほとんど知りませんでした.「井の中の蛙」になってはいけないと思い,異動の話があってからインターネットや雑誌で七栗に関する情報をいろいろ調べました(もちろん園田教授のホームページも拝見しました).FIT programなど最新のリハビリプログラムを積極的に行っていることと,約120名という入院患者数の豊富さ,七栗セミナーのような地域と一体になった勉強会は,川崎医科大学では経験できないシステムであり規模(ちなみに川崎医科大学はリハ科40床程度で,2002年4月から回復期病棟承認)も違いました.臨床が大好きな私にとって,日増しに七栗への期待は高まっていましたが,同時にやっていけるだろうかという不安も抱いていました.

 2002年2月28日,冷たく雨が降ったこの日,初めて園田教授(当時助教授)に御挨拶させていただきました.久居駅からタクシーで七栗まで向かうことにしましたが,車が進むにつれ徐々に目の前から建物が減少し,田や畑の数が増え始め,まるで祖父母の家(淡路島)に来たような気分になったのを今でも記憶しています.七栗に到着し,1階待合ロビーで園田教授を待っている間,非常に緊張していました.もちろん全く面識が無かった(私は存じ上げていましたが)為,何から話していいのかパニックになっていたからです.待つこと数分教授が来られ,業務中でお忙しいにもかかわらず,七栗を1階から5階まで案内して下さいました.途中で各階の婦長さんやドクター(今思えば岡崎先生でした!)も紹介して下さいました.この訪問で楽しみにしていた新棟の廊下と訓練室を拝見させていただき,とても明るくきれいで,ゆとりがあって病室と訓練室の配置も素晴らしいなと感動し,またスタッフの皆さんが非常に若くやりがいがあるなと感じ,期待に胸を膨らませ岡山に帰ったのを記憶しています.

 2002年3月28日,久居に向けて岡山を出発,いよいよ七栗での生活がスタートし毎日が経験したことのないことばかりで新鮮でした.それはFIT programをスタッフとして実際に体験できたこと,セラピストの先生方とのカンファレンスだけでなく日常での意見交換,七栗セミナーの参加等です.川崎医大での昨年1年は,自分に余裕がなく経験も全くなかったためリハ医らしい仕事が出来ず,常に反省することばかりでした.七栗ではいい意味での心地よい忙しさがあり,臨床好きな私にとっては居心地のよい場所でした.また現在の私に何が不足していて,何が必要であるかも実感させられました.これら貴重な経験ができ自分の財産とすることができたのも,七栗リハスタッフ・医局員の先生方(もちろん第一病院のスタッフや医局の先生方も),中でもお忙しいところ時間をさいて,御丁寧に指導してくださいました才藤教授・園田教授のお力添えに他なりません.川崎医大にいいお土産を持って帰れそうです.

 2003年4月より私は「川崎医科大学大学院分子細胞生物学課程」という,免疫学・遺伝子治療関連に進学することとなりました.しばらく大好きな臨床から離れてしまうこととなり私にとって残念ですが,未知の領域でもあり新しい分野へのチャレンジも今のリハビリテーション医学界では重要ではないかと考えています.少しでもそこで臨床に役立つことが発見できればという気持ちでいっぱいです.また七栗スタッフの皆様も決して現状に満足せず,臨床に研究にいつも最前線でリードしている立場でいてください.また今後も私が,藤田と川崎の良きパイプ役になれればと思っている次第です.

 最後に,今まで大変お世話になりました藤田リハスタッフの皆様に感謝いたします.このような貴重な機会を与えてくださった才藤教授・園田教授に,改めてこの場を借りて御礼申し上げます.また皆様にお会いできる日を楽しみにしています