誌上講習会    
 今年度より,神奈川リハビリテーション病院理学療法士,冨田昌夫先生に脳卒中片麻痺患者の移乗動作・歩行訓練について,当研究会々員に誌上講習会を開催して頂いています.年3回のシリーズで,今回は,その第3回目です.

「頚損・脊損のシーティング・トランスファー」        
 神奈川リハビリテーション病院
 理学療法士 冨田 昌夫

はじめに
 シーティング,トランスファーいずれも安定性優位で,動いたとしてもゆっくりしているので静力学的にとらえると理解しやすい面がある.しかし余りに力学的な見方をしすぎると人を物とみなして機械的に患者さんを操作しかねない.機械的な見方は動きを分析したら結果的にそうなっていたということにすぎない.それ以前に人は“感じる”ことで融通性を持って環境に適応し,姿勢調節や動作を行っている.重力の働く世界で直立位になることを選択した人が常に最優先しなければならないのは転倒・転落しないことである.転倒・転落に対する不安や恐怖を患者さんはどのように感じているか私たちが理解しようとしなかったら十分なシーテイングはできないし,安心したトランスファーも実現できない.患者さんの“不安や恐怖は私たちが想像することができないぐらい根深く,大きい”という大前提のもとに,今回は“人は機械ではない!”ということをきちんと押さえた上で,ある程度力学的な見方も取り入れて考えてみたい.
                 
認知過程の潜在性 
 不安や恐怖は患者さんが実際に怖いと自覚している場合だけでなく,患者さんは怖いと自覚していないのに身体が怖いと反応して力が入っていることが多い.このため意識したり,言語的なコミュニケーションで捉えるだけでは不十分で認知過程の潜在性を認め,無自覚の世界にアプローチしていくことが重要である.
 私達は自覚し,意識できる以前に身体が環境の情報に反応して筋緊張を高め,その場に適応していつでも動けるような準備状態を整えている.それが認知過程の潜在性である.多くの場合無自覚のうちに環境に適応する動作が行われ,無自覚なうちに終了してしまうがときにより動作の途中で気づいたり,結果だけが意識できる場合もある.自分が自分の意思でやっていながら自覚できない,もしくは結果を見て初めて自分のしている事がわかるという一見不可思議な現実が存在している.私達は意識しているか無自覚であるかに関わらず,ある動作をしている間でさえ周囲の情報に反応して,心要があればいつでも別の動きができるような準備も同時に整えている.刻一刻と変化する情報に基づいて運動が準備されるので,同じ動作でもそれを可能にしている運動の準備状態まで同じということは通常ありえない.動作はいつも同じ組織が同じように参加して行われるのではなく,その時活動しなければならない,まさにたった一つしかない選択肢に基づいて引き起こされていると考えるべきである.このことを自己組織化と呼ぶのではないかと私は考えている.
 一般に行為をするということは目的を達成することであり,ナイサーの知覚循環に見られるような意図的な行為の仕方である.基本的には自分のいる環境で運動の準備状態ができていることが前提になる.意図を実現する為に全て頭の中でプラン・プログラムする,そして何もないところにその絵を描くということとはまったく違う.すでに背景は全てできていて,しかも常に変わっている,その中に意図という絵をはめていくというのが現実のようだ.どのようにはめるかは状況任せ,つまりあたりの様子をうかがいながらはめる運動をして,目的どおりにいかないところはさらに様子を見ながらやり方だけでなく,意図まで含めて変えていくという方法で目的を達成しているのが意図的な行為と云える.だから,意図するときどのようにやろうなどと思わない.行為を行うときに私たちが意識するのは目的を達成することである.同じ目的を実現するのにやり方はたくさんある.“やり方まで意識しない”ことと“運動の準備状態は無自覚に作られる”ということにはきわめて重要な関連があるかもしれない.やり方もしっかりと決められて,そのうえ環境に合わせて用意された運動の準備状態にも適応しなければならないとなると,そのようなことを現実的に行うことは極めて難しくなる.
 いずれにしても身体的な変化(運動)は意思や動機といった心の活動や中枢神経系の活動だけで作られるのではなく,環境の情報に反応して運動の準備状態が作られるという事実を含めると,外部との相互作用の結果として“できてくる”のが身体的な変化(運動)であるということができる.環境からの情報には個人的な価値や意味がたくさん含まれている(アフォーダンス).そのために同じ目的を遂行するにも当然のこととして,やり方に個人差が生じることになる.治療は患者さんが自覚していない部分を無自覚のうちに変えられる,変えて目的を達成するという結果を出せることがセラピストの終局の目標になる.実現するために理学療法士として私が最も強調したいのは“支持面との関係が分かり,バランスをとる戦略が自由に変えられる”ようにすることである.
 以下自分を知ること,環境と相互関係を持って適応的に動くことができなくなった例,そして治療的に私たちがすべきバランスについて順を追って述べていく.

〜行為は環境との相互関係の更新(自分のことを自分だけでは分からない)〜
 私達は“自分のことは自分が一番よく知っている”と何の疑いもなく信じているのではなかろうか.ところが現実的には神経生理学的なコミュニケーションによる内観だけでは自分を知ることは困難で,自分を知るために自分で行った行為による外部の変化を観察し,推測することが不可欠であるという.外部とのこのようなコミュニケーションを無自覚のうちにやっているというきわめて不思議な事実を私達が認めるか認めないかで人の理解,治療の仕方が大きく変わってしまう.
 人は何も無い空間で動作をするのではない.行為をするとき,外部の環境や物に働きかけ,情報を入手してそれらの持つ一般的な特性を知るだけでなく,私達は自分の行為との関係で自分なりの意味や価値をそれらの物や環境に付加している.次に同じような場面に遭遇すると,その環境や物から自分なりの意味や価値も含めて引き出し,行為に役立てる.私はこれを手続き的な記憶の一部と捉えている.このような意味や価値は無自覚のうちに付加され,無自覚のうちに引き出して利用されるものであり,意識的・言語的にどのような意味や価値を付加したり利用したか伝えることはできない.ただ行為を通して,無自覚的に,自分の生態学的なところで意味が分かり,利用できるのである.だから無自覚のうちに身体が反応して適応行動ができてしまうようなことが起こりうる.
 行為をするということは目的を達成するだけでない.能動的に働きかけて身体を外部に合わせて調節的に変化させることを通して自分を知り,更に自分との関係で環境を捉え直して新しい相互関係をつくることでもある.つまり行為をするとは“目的を達成すること及び環境と自分を同化させ,次に行うときの準備を無自覚のうちに同時にやる”ことである.
 このような行為との関係で環境や物の持つ意味をギブソンはアフォーダンスと呼んだ.疲れたり長時間座った後などある意味で運動機能は常に変化している.老人や障害者では運動の予備能力が低下している為にわずかな運動機能の変化で先に変更し準備をしたはずのアフォーダンスと,今の運動機能との間に乖離が起こり,転倒やスムーズに動作ができないことの原因になる.このように転倒は身体反応が環境と相互関係をもてないためであり,必ずしも段差など物理的障壁が原因になるとは限らない.行為をする能力は特定の時に特定の場所で見られた(測定できた)筋力やROMなどの身体機能と一対一に対応するのではなく,環境や個人差,そして感情など,さまざまな要因で変わってしまうことをしっかりと認識して治療を進める必要がある.

〜頚損・逆さめがねの世界(環境に適応的に動くことができなくなった例)〜
 支持面が分かり,環境に適応できるということはどういうことか頚損と逆さめがねを例に考えたい.頚損になり自分で動けなくなると,以前何でもなく届いていた距離が届かなくなる.近かったはずのその距離は遠いと感じられる.壁の高さも高く,床までの距離も遠く感じる.反対に動いて逃げることのできない状態で寝ていると天井は低く自分に迫ってくる.頚損のように突然動くことのできなくなった患者は,自分でまわりを探索しながらベッドに寝たのではない.誰かに連れてこられて他動的に寝かされたのである.自分で動けなくなってから,ずっと視覚的な情報と触覚的な情報と乖離した状態である.感覚や筋の麻痺の為に,支持面すら感じにくかったり支持しにくい状態になると,支持面がしっかり支えるという“重力のある世界で,最も基本的な定位”もできなくなる.そうなると自分の存在そのものが危うくなるので恐怖を感じたり,強い不安や精神的なパニック状態になる.加えて,頚椎の整復のために頭部を牽引された状態や,褥瘡予防のための柔らかいマットやベッドの傾斜機能,周囲にある未知の医療器械などの特殊な環境が,ますます不安を高めている.頚部,肩甲帯の筋緊張の亢進は,以前いわれていた麻痺筋と残存筋のアンバランスからくるだけでなく,定位するための情報を多くしたり,肩甲骨を固定して身体の上部を回転しにくくするなど,患者が環境へ適応する努力の一つと考える.当然のこととして,受傷前に安心できると考えられた記憶に基づいて,情報の量を多くすることで安定しようとしているので,障害を持った身体で環境に適応するような動き方にはなっていない.そのために患者はリラックスして力を抜くことができなくなる.
 逆さめがねで視覚による像が上下・左右逆転すると身体および神経に構造的な変化はどこにもないにもかかわらず動けなくなってしまう.私達はすでに人は情報に基づいて運動の準備状態を作り,それに基づいて動作をしているという事実を知った.頚損・逆さめがねでは感覚間(特に視覚と触運動覚)の意味付けや役割の調和が崩れ,環境の持つアフォーダンスが今までと違った意味や価値を持つようになり,記憶の中の意味や価値と乖離する.その混乱が動けない身体状態(それも一つの反応)を作り出していると考えられる.無自覚な部分も含め,(頭では)こうなるつもり,こうなるはずと予測していても,実はそうならないので,危険や不安を感じてしまう.現実が自分の確信できる記憶でとらえる意味や価値と違ってしまっているということは自分の信じられる記憶に基づいていくら情報を集めて,知識として頭で統合し理解しようと努力しても,現実の世界と自分が相互関係を持って適応的に動くための情報にはなりえない.つまり感覚の統合という概念で問題の解決はできない.障害を持つということは運動・感覚の機能低下といった部分的な量的な変化ではなく,環境の持つ意味や価値まで変わってしまい,自分の中にある統合の為の基準が変わってしまうことである.質的な変化がおきていると考えるべきで,壊れた基準で情報の量だけ集めてみても一つの秩序,調和,意味などのまとまりはでてこない.そのため一人で現実に対応しようとすると“怖くて動けない”もしくは,どのように動いたか分からないが目的がうまく達成できなかったという結果だけは視覚的によくわかるので“目的を遂行しようと視覚的に頑張る”ので身体には無自覚的に過剰な安定性を求めた緊張や反応がでてしまう.
 逆さめがねでは赤ちゃんが発達したのと同じように障害を克服するにも能動的に現実の世界に働きかけて,現在の身体状況の中で現実の不変な構造・原理を再発見することができれば,逆転した像のまま,再び触覚と調和でき,正立した見えが戻り世界が現実のものとなる.統合ではなく秩序を作り変えるところから考えるべきである.そのとき障害が治ってなくなるのではなく,障害をもったまま環境に適応し意味や価値を自分なりに更新するのである.再び患者さんが安心できて動作能力が改善するのは環境に能動的に働きかけて新しく自分との相互関係に基づいたアフォーダンスを発達させたためといえる.このような結果をふまえて,私は成人の治療に関しても“運動と感覚の統合もしくは感覚間の統合を図る”と考えるのではなく,“未分化な状態に退行した機能を再び分化させるように発達の概念を生かして環境へ能動的に働きかける活動を活性化する,つまり自分で発動性をもって動けるようにしていくことが重要である”と考えている.未分化な状態とは感覚間の調和がなく,感覚器それぞれが独自に刺激の物理的エネルギーに反応する受容システムにすぎない.分化したとはAという物があるとき,Aの不変の構造が分かり,それを基準として捉えることができ,それに基づいて視覚で捉えても,触覚,聴覚いずれの感覚で捉えてもAであると分かる状態であると理解している.赤ちゃんの発達に赤ちゃんの能動性とそれを受け入れて支援する母親,環境が重要であったように,成人の障害者にも本人の能動性(やる気)が大切な事は言うまでもないが,それを発揮できるように誘導する人(赤ちゃんでの母親)や発揮しやすくする環境が整備されていることも大切である.赤ちゃんが絶対信頼の母親に抱かれて安心して大胆な試みができるように障害を持った人にも“支えられて安心でき,自発的な動きをしたり,されるままに動かされるところから何かに気づき,自分で動こうとする気分にさせてくれる人”の存在が大切である.それをできるセラピストが患者と共感できるセラピストといえるのかもしれない.そして安心して動きやすい環境を提供する手段の一つがシーティングであると考えたい.トランスファーにおいても眼の動きだけでも,それもできなければ気持ちだけでも能動的に参加してもらい,一緒にやるというセラピストの心構えも重要である.

バランス
 重力の作用する環境で姿勢を維持したり,ゆっくりした運動は基本的に第一の挺の原理に基づいて行なわれる.ここでは運動および運動の制御を身体内部だけで捉えるのではなく,支持面つまり外部環境と身体,運動の支援活動の関係で捉え,検討しておきたい.

 (a)パーキングファンクション:支持面に接した身体部分がそれぞれに筋活動で結合されずに独立した重心をもって支持面から支えられている状態をいう.前提条件として物理的に支えられている必要はあるが,支えられている事を知覚できなければ筋をリラックスしてパーキングファンクションになることはできない.Affolterによれば支持面を知覚できないということは自分を支えてくれるものがないことであり,安心して自分が存在できなくなる.不安や恐怖を感じると筋活動で,身体の内部の結合を強くして,硬くなり,動けなくなる.支持面がわかってくるにつれ,四肢は体幹に結合された状態から解放され,動いて支持面を探索して知覚する事ができるようになる.知覚するために局所的な運動能力や感覚は絶対不可欠なものではない.どこの身体部分を利用してもよいから能動的に動いて,環境に働きかけ探索できればよい.このように身体を様々に動かして環境に情報を探索・入手し,知覚する事をダイナミックタッチと呼ぶ.時には身体も道具となる.その時身体は力が抜けて探索するように軽く振ったり,物の形に合わせてさすって動かせる事が重要で,同時収縮して硬くなった状態で動かすのとは違う.硬くなっていると感覚器官の感受性も低下して探索が困難になる.

 (b)運動の支援活動を用いたバランス活動:動いて支持面に定位するとき,定位の仕方を決定付けているのは,自律的なバランスの取り方である.バランスの取り方をKlein−Vogelbachは基本的に3つに分けている.身体の一部が水平移動成分を持つ方向,例えば立位で上肢を前方に挙上するとき@:支持面の内部で重心線の通る位置が変化しないように同時に身体の他の一部を後方に移動させて釣り合いの重りを調整してバランスをとる.CWの活性化である.外部環境の変化が起こらないように固定点を作り,内部環境を変化させている.重心線に対して質量の分布範囲は広くなるので慣性モーメントが大きくなり,回転しにくい安定した姿勢になるともいえる.A:目的動作の遂行過程で,重心線の前方移動のために生じる身体を支持面に対して前方に回転するモーメントを,支持面に接する身体部分(足部)に他の身体部分を結合して前方への回転に拮抗し,制動する筋(伸筋)の活動で制御してバランスをとる.CAである.床反力を利用した制御であり,外部環境の変化を探索,知覚して内部環境の変化と相互関係を持たせながらバランスをとっている.筋力は要求されるが目的や環境の変化に合わせて,動作に多くのバリエーションを持たせる事が可能になる.B:CAを予測的に,先取りして初めから目的の運動と制動の運動を2つ同時に行なってしまう.CMである.速く,強い動作が可能になる.
 健常者はこのような基本的なバランスのとりかたを必要に応じて適当に組み合わせて姿勢を維持したり,行為を行なって,動作のやり方を様々に修飾し,バリエーションを持たせたり,強く,速い動作も可能にしている.外部環境の変化が起こらないように内部環境を変化させることでバランスをとるCWの活性化では支持面を気にせずに,かなり一方的に自分の動ける,もしくは使いやすい筋の活動で内部環境を変える事を中心に姿勢制御しても,バランスを崩しにくい事が特徴である.したがって運動機能に障害のある患者や筋緊張に偏りの生じた健常者ではCAやCMを使わずに,無自覚のうちにCWを活性化する事が優位になり易く,バランスの取り方が制限されて偏ってしまう.CWを活性化するバランスの取り方が優位な状態では支持面での変化が起きないために,姿勢も変化しにくく,特別な傾向性ができ全身的な姿勢筋緊張にも偏りが生じてしまう.また合目的的な動作の遂行が,バランス維持のために制限されて,画一的な動作パターンになってしまう.人は倒れることへの恐怖が強いためCAが使える運動機能があっても自信のない事や,不安があるときには無意識のうちに過剰な安定を求めてCWを活性化するバランスの取り方を優位に使いやすい.このために姿勢筋緊張のアンバランスが大きくなり,姿勢や動作に人それぞれの傾向性が出るようになる.
 不安を取り除き潜在的に持っている能力を最大に発揮して,バランスをとる戦略を自由に変えられるようにすることが無自覚へのアプローチの基本である.

おわりに
 シーティングやトランスファーを力学的に捉えることはかなり一般的になってきた.しかし力学的に,人を物とみなして扱うときのデメリットは決して少なくない.デメリットを少なくする為に相手の感情を考え,共感しながら,少しでも能動的に参加してくれることを期待して“環境に適応する”為の概念を取り入れて考えてみた.ほんの少し先,あと数年もすれば再生医学の発達で,頚損,脊損は治すことを目的にしたアプローチが要求されてくると考えている.このとき重要になるのが残存能力の強化的な従来の治療に変わって,環境に適応して能動的に動くことを強調した治療であると考えている.近末来に向けて,今から発想の転換をしておく必要がある.