<セントピエールさんのホームページより>
エマヌエル症候群の患者さんのご家族からの手紙
 
2013年2月22日金曜日
<セントピエールさんのホームページより> 
エマヌエル症候群の患者さんのご家族からの手紙
 
1.ダミアン
南アメリカ ローラ・ミュノス(サンチャゴ・チリ)
 
 ダミアンの話をするにあたって、まず、ハビエルのこと話さなければなりませんね。
1996年4月27日、3番目の男の子が生まれました。何も悪いことはしていません。全くの正常妊娠でハビエルを出産しましたが、彼は、自発呼吸ができませんでした。誰もが行ったり来たり走り回っていました。私は、ショックでした。身体の震えが止まらず、何が起こっているのか理解することができませんでしたが、実はとても悪い自体でした。彼らは、私を眠らせ、ハビエルをNICUに連れて行きました。そこでハビエルは人工呼吸器につながれました。私の病室で小児科医は、重度の横隔膜ヘルニアがあると言いました。そして外科医は、私の息子は、巨大なヘルニアで左肺の発育が出来ず、手術を行うことができず、生き残る見込みがない、と言いました。
 2週間前に主治医は私に、40週になっても陣痛の兆候がないので、陣痛を誘発しなければならないと言いました。私は心の内側で言葉にできないような恐怖を感じていました。私は、彼に誕生してきてほしくなかったのです。彼を私の内側に置いておきたかったのです。この考えが愚かであることを理解できず、私はメキシコにいる妹に手紙を書きました。そして、言いました。「誰しもが私を批判する。私はハビエルを出産しなければならないということが非常に悲しい。そして、説明することができないのだが、産まれるということが死にゆくことと同じであるという感情を持っている。」それから数年経ち、今では、私は母親であるという強い感情を持っています。妊娠は赤ちゃんと深いつながりを築くのです。
 私は、ハビエルが生きている間には、決して胸に抱くことはできませんでした。私は、集中治療室にいるときは、とてもストレスを感じていました。そして、私が自宅に戻っている間に、彼は亡くなりました。私は、心にとても大きな傷が残り、ある時は彼を求めて泣き叫んでいました。
 1ヶ月後、染色体検査の核型を尋ねてみると、彼には遺伝的問題があると告げられました。そして、何より重大なことは、私がそれを伝えたということ、私が均衡転座の保因者であるからであるということでした。
 2度目の悲しい出来事が私に襲いかかってきました。私は、もう一度母親になるという考えを捨てることができませんでした。私は、赤ちゃんを抱っこして、授乳をし、優しく抱きしめることが必要でした。しかし、この検査結果を知らされてこの機会は終わってしまったと感じました。私は、とてもみじめだと感じました。すでに良い家族を持った今では、それは愚かな考えだと思われます。しかし、他の誰にも、もう赤ちゃんはあきらめた方がよいよなどと言って欲しくはありませんでした。私が自分で決めないといけないことだと思いました。
 悲しみは次から次へやってきて、母乳は止まることがなく、まるで持ち主がいないために泣いているかのようでした。ハビエルの部屋はまるで彼が数カ月で戻ってくるかのようにそこにあり、私はそれを片付けることはできませんでした。もしそれが私の腕の中にあったとしたら、私は死んでいたでしょう。
 しかし、人生は続いてゆき、そして私は愛に囲まれていました。私の夫は、失った息子のことよりも私のことを非常に心配し、私の回復のためにたいへんな努力をしてくれました。そしてついに私は、光を見つけ出しました。私は、今では、過去をふりかえってみることができ、私の息子のことを愛情をもって考えることができます。私は多くのものを学びました。
 1年後、神は、私たちに美しい少女を授けてくださいました。わたしたちはパロマと言う名前の女の子を養子にもらいました。
 
ダミアン
 私は学んだ事のひとつは、多くの事を動かそうとしないこと、ものごとは単におこる、そして、それがやって来たときには向き合わなければなりません。私たちは、ハビエルの後はそれ以上子供を持たないと決めていましたが、にもかかわらず、2000年9月、私は新たに妊娠しました。私は、重いうつ病になってしまいました。あらゆる恐怖が蘇りました。私は同じ経験をすることができませんでした。なぜ、私は再び経験をしなければならないの?私は、幾度も妊娠はしたくないと神に祈りました。それから、私は健康な子供が欲しかったのですが、私の祈りは何一つかないませんでした。時間がたつにつれて、私はさらに絶望的になりました。私は染色体検査を胃する決心をしました。そしてその結果は、不均衡転座でした。私には地獄への旅をしていました。すべての医師は、ダミアンは生きる可能性はなく、きっと出生後にすぐに死んでしまうだろうと言いました。この遺伝子を持った人で生存しているひとはいないと言いました。妊娠している母親として、息子のことを悲しく思いました。私は、彼を愛したいと思いましたが、私の中で愛情を見つけることはできませんでした。私は、恐ろしかった。それと同時にどうして愛することができるでしょうか。私は、責任を感じました。私は最善に尽くさなければなりませんでしたが、愛情を感じることはできませんでした。またそのことで、私は非常に悪いことをしていると感じました。私は決して、病気の子供をひとりで放っておくことはありませんでした。さらに、他の子供たちが病気になるたびに私は世話をしました。なのに、なぜ、私はこの子のためにはしないのでしょうか?単に、まだ生まれていないから?もし、社会は、人が母親の中にいるか外にいるかで異なった価値を与えるのでしょうか?私は、彼の世話をしなければなりません。でも、悲しく、落ち込み、恐い。死が影のように私の側まで歩みよりました。さらに、私はひとりになり、私の夫と私は同じ経験に対して異なる道を歩んでいました。私は自分自身の中に逃げ場をみつけ、彼は仕事にみつけました。決して、さほど孤独を感じることはありませんでした。
 助けてくれる人はいず、失いました。
 2001年5月30日、ダミアンの誕生の予定をしていました。そして、他人のような2人がダミアンが来るのを待っています。そして、私の小さなダミアンが誕生しました。彼は、とても元気で、とても正常のようにみえました。私は、何か起こっているのか信じられませんでした。彼は、多くの検査を受けにまわりました。脳の超音波も正常で、心臓の超音波も正常、そして、ほんの小さな耳介の穴がありましたが、全く問題ではありませんでした。腎臓は正常で、些細なことですが、低体重、小顎症、虹彩欠損がありました。最初の1か月は母乳を与えることが困難でありましたが、多くの努力で可能でした。彼は、飲み込むことがかなり困難で、時折、青ざめていましたが深刻ではありませんでした。1ヶ月後、遺伝学者は、この子は誕生することはできたが、重い障碍を背負っており、すべての面で遅延していると言いました。私は、たくさん泣きましたが、それ以来二度と泣いてはいません。私は、一般的なことですが、すべての子供には自分の世界があること、そして、ダミアンが何をしようとしているかを見つけ出し、いつ必要としているかに気を配らなければならないことを知りました。何がおこりうるかとか、統計学的なことではなく。それ以来、これまで以上に幸せに暮らしています。
 ダミアンは成長しましたが、若干、緊急的な事がありました。私は、耳感染症と咽頭閉塞とには注意していたので、うまくいっていました。
 彼は3か月で聴覚障害と診断され、9か月までは補聴器が必要でした。その後、彼は補聴器をつけるたびに毎回泣き始めたので、新しい評価法をうけにいき、彼はより多くの事を聞けている事がわかりました。今では、彼はよく聞くことができ、決して、再び補聴器を必要とすることはありませんでした。1ヶ月のとき、彼は、多巣性てんかんと診断されました。1年間フェノバルビタールを服用しました。それ以来、すべての脳波は正常となりました。その後、発作はありませんでした。
 彼はとてもすてきな小さな男の子ではありますが、彼の笑いと喜びは家族を明るくさせます。私の夫は、彼をすごく愛してくれていて、とてもよい伴侶です。私は、理学療法、作業療法、言語療法、そして母親として彼の到達点を豊かにすると思われることすべてを彼にしました。彼は、歩行のために多くの努力を必要としますが、ひとりで上手に座り、絵を描いたり塗ったりすることが大好きです。ブラ、ブロ、ママとか、いくつか発語します。また音楽が好きで、兄のダニエルと遊ぶ事が大好きです。
 私はこれらのふたりの子供で、私の人生はひっくり返ったと言わざるをえないです。私たちは泣いたり、笑ったりしましたが、人生の中で何が本当は重要なのかを見つけ出しました。
 
ママより
ローラ    
 
2.ウイリアム
ご両親はメアリー&ブレント・ローラーソン
ハーレム ジョージアより
 
 2002年8月28日、私たちの息子ウイリアムは誕生しました。体重は7ポンド2オンス(3232g)、身長は19インチ(48.3cm)でした。彼は申し分がないように見えました。身体的異常はありませんでしたが、私は何かがおかしいと思っていました。母親の直感だと思います。2日目に私たちは帰る前に看護士に、彼を連れて帰りたい、喜ばせたい、と言いました。看護士たちは、私が心配しすぎていると言っていました。そして、実際彼を連れて帰りました。3日目、彼は呼吸困難になり、救急医療室(ER)に連れて行きました。医師は、気管の輪が形成されていない気管軟化症だといい、家庭用人工呼吸器を取り付けられました。彼は肺を強くするためにステロイドを必要としました。さらに、彼は二度病院で酸素テントに入れられました。私は、看護師の一人が抱いている間に彼は体を反らせる発作をおこし、普通ではないと言ったことを覚えています。1カ月の間、私たちはこれらの症状について小児科医に話しましたが、診察室では、決してその症状をおこしませんでした。私が彼にこんなことをするのは心配しすぎだと言われたこともあります。6ヶ月の時、私がオクラホマの家族を訪ねた時、家族は彼が座らないことに気がつき、染色体異常かもしれないといいました。私は、彼らの方がおかしいのだと考えました。10カ月までに、彼は寝返りを打つことができるようになり、1年後、彼は脳性マヒだと誤診されました。私は、この診断に納得がいかなくて、遺伝学者のところにウィリアムを連れていくと、私とウイリアムの検査をしました。私たちがそこを訪問する直前に、当時身ごもっていた子供が流産してしまいました。2週間後に、息子は転座による疾患を患っており、私が均衡転座の保因者であることが判明しました。
 私は、再び妊娠することを恐れました。息子は、ほぼ1歳1カ月ですが、座らせると、手助けなしで座っています。彼Baby Einstein やRolly Polly Ollieのようなテレビ番組をみることが好きです。彼は素晴らしい息子です。そして、わたしたちは彼をとても愛しています。
 
母より
メアリー
 
3.ブランディ
ご両親はノバスコア州のリンダ&チェスリー
 
 ブランディは、カナダのハリファックス市内にあるIWK-グレース産科病院で2001年8月12日に誕生しました。彼女は、とても珍しい遺伝性疾患で、彼女のDNAにある22番染色体が過剰にあることが原因の、過剰派生染色体症候群と診断されました。この病気は、22/11トリソミーとしても知られており、多くの先天性の病気を引き起こします。
ブランディの長期的の展望は、よくありませんでした。彼女には口蓋裂があり、両方の耳に脳との間の穴があり、心臓の問題、そして両目の虹彩欠損症を持って生まれました。そのような身体的な問題に加えて、ブランディは筋緊張低下(柔らかい筋肉)、協調運動不良、発達遅延、平衡感覚不良、そして、反射遅延がありました。彼女は、ハイハイや歩くことができず、目的地にたどりつくことが困難です。
ブランディは、すでに生命にかかわるような問題を修復するための外科手術を数回受けました。2003年7月に彼女は心臓の病気を治すために心臓切開の手術を受けました。また、口蓋裂や耳を治すために何回もの手術を受けました。外からは見えませんが、ブランディは乳児期に、哺乳瓶で飲むのが難しく、口蓋と鼻腔の間に穴があるため、舌でのどをつまらせることがしばしばありました。
これに加えて、ブランディには重度聴覚障害があり、また視力困難もありました。彼女は、ふたつの補聴器とふたつのメガネを着用しています。ブランディの眼は、明るさに適応することができません。結果として、彼女は天気の良い日にはサングラスを着用することが必要でした。ブランディは、尿細管性アシドーシスとして知られている腎臓の問題を抱えていました。基本的には、彼女の腎臓は血液からの酸を濾過することができず、結果的には、成長不全や発育不全をもたらしました。3歳半で、ブランディはとても食欲があるにもかかわらず、たったの25ポンド(11.34kg)でした。
ブランディは、地元とハリファックスとで多くの医師に診てもらっています。ケープブレトンで、彼女は小児科医、理学療法士、作業療法士、早期介入士、聴覚指導士、言語療法士、そして、大西洋州特殊教育機関(APSEA)からの代表者に診てもらっています。ハリファックスでは、彼女は形成外科医、心臓専門医、栄養士、耳鼻咽喉科医、聴覚専門医、腎臓専門医、遺伝専門医、歯科医、眼科医、そして、APSEAのハリファックス支部に診てもらっています。
想像できると思いますが、ブランディのお世話をすることは、1日中かかる仕事です。彼女は、2か月おきに定期的にハリファックスへ行く必要があります。私たちは、彼女にどんな将来が待ち受けているかはわかりませんが、専門家は、彼女はとても深刻な発達の問題を抱えているだろうと言っています。これは、筋力低下、平衡感覚の問題、コミュニケーションの問題が合わさって彼女の人生を頑張らないといけないものにしています。
 
チェスリーとリンダ
(文責 細羽、倉橋)
 
 
 
4.マキリー
母 トリシュ
フロリダ
 
私の名前は、トリシュ26歳、主人のアレンは36歳です。私たちは、2002年5月から妊娠を試みました。長い15か月をかけて数々の妊娠試験のすえ、2003年7月に第1子を妊娠しました。正常で、健常な妊娠でした。2004年4月1日、私は、娘マキリーアシュティンを出産しました。破水したときに羊水に胎便があったので、彼女を出産する時には吸引で取り出さなければなりませんでした。生まれてすぐに医師は彼女を保育器に入れ、私は彼女の泣き声を聞くのを待ち続けました。ついに、永遠のように思われた長い時間の後、彼女はついに・・・それはとても弱い泣き声で、私は何かがおかしいとわかりました。彼らは、彼女を急いで部屋の外に連れ出しました。そして、私のベッドの側で私が彼女を見ることができるように立ち止まりました。そのとき、彼女の頬の皮膚の突起物があるのに気づきました。私が看護師にそれは何かとたずねたとき、「これは皮膚突起で、彼女にはもう2つあり、さらに口蓋裂もあります。」と言いました。そして看護師は娘を腕の中に抱いて飛び出しました。私は、気が動転してしまいましたが、皮膚突起?口蓋裂?どうしてこうなったのだろう?なおるのだろうか?と考えました。約1時間たちましたが、私にはまだ何がおこっているのかわかりませんでした。私の主人は、泣きだしました。彼は、医師たちは赤ちゃんが挿管の必要があるので、30マイルも離れたNICUのある病院に連れていかなければならないようだと私に話しました。私は、泣き叫びました。私は、病院を離れることができませんでした。私は、娘と一緒にいたかったのですができませんでした。私は長い間、彼女と一緒にいる時間を楽しみにしていましたが、それはひどいことになってしまいました。医師たちは彼女を連れていく前に、彼女に会わせてくれましたが、彼女は呼吸をするのにひどくも苦しんでいました。彼女がちょうど5ポンド10オンス(約2500g)で満期児なのにおかしいと思っていました。翌朝、主治医は、私に退院を許可しました。私と主人と両親は、赤ちゃんに会いに行きました。彼女はすさまじくみえました。彼女の頭部はひどく腫れあがっており、出産の際にできたあざがあり、眼は腫れており、多くのチューブやワイヤーが彼女に取り付けられていました。医師らは、彼女には遺伝子の問題があるかもしれないと考えているので、遺伝専門医に来てもらって話してもらう、といいました。私は怖かったですが、「私のことではない、私たちのことではない、私にはそんなことは起らない」と考えていました。彼らは、彼女の心臓、腎臓、脳などを検査しましたが、すべて正常でした。再び、私は彼女は大丈夫だ、単に口蓋裂と皮膚突起があるだけで、大したことないと考えました。それから彼女が生後1週間の時に遺伝専門医が訪れました。彼らは2~3人の医師、助手とソーシャルワーカーを連れて一緒に部屋の中に入りました。
私は、悪い話になるように思いました。彼は、私たちに赤ちゃんが22トリソミーであることを話し、残念だといいました。私は、すごくパニックになりそれが何を意味するのかわからなかったのですが、たずねることを恐れました。そして、口から出た最初の言葉は、「それは彼女にとって何を意味するのですか?」でした。遺伝専門医の言葉を、私は決して忘れることはないでしょう。「マキリーは、たいへん知的に、そして身体的に遅れるでしょう」でした。私はその時そこで死にたいくらいでした。私は、涙を抑えながら、彼女が歩けるかどうかたずねましたが、彼はわからないけれどたぶん無理でしょう・・・と言いました。私は、誰かに胃を叩かれるような感じがしました。そして、私は彼女が話すことができるかどうか尋ねましたが、彼は、再び、たいていのこの病気の子供たちは話すことができないと言いました。彼はさらに続けて、この病気は非常に珍しく、彼が診たことがあるのは2人だけだと言いました。すべて涙でかすんでいました。私はどうしてこんなに不公平なのと叫んでそこから飛び出して行きたかった。マキリーは今では生後2カ月です。彼女が病院から帰ってきてから1カ月になりました。状況は改善しつつあります。私は以前より希望に満ちあふれています。彼女は、「ふつうの」赤ちゃんのようにふるまいますが、時折ですが、私にはそうでないことを確信させられる辛い時があります。彼女の食べるために必要なGチューブと、終わりのない医師の診察予約によって、定期的に思い出さされます。私はだんだんこれに慣れてきて、毎日娘のことをさらに愛するようになってきました。私は、彼女ができないことではなく、彼女ができることだけを考えるよう努力しており、そうすることできりぬけることができると信じています。
 
トリシュ
 
(文責:細羽、倉橋)
 
5.マディソン
母 リサ・クルーズ
 
 2000年1月6日、マディソンは41週で生まれました(出産予定日を1週間過ぎて、誘発しました)。体重は、6.6ポンド(2993g)、身長は21.5インチ(54.61cm)でした。私は29歳、夫は33歳で上の娘が3歳でした。とくに合併症を伴わない分娩で、それまでに流産もありませんでした。マディソンは生まれた時に、遺伝性症候群の可能性のある身体的な特徴があることに気づかれました。その特徴とは、顔の両側にある耳のくぼみ、広い額、足首の変形、筋緊張低下、小顎症(へこんだ顎)、哺乳力の不良などでした。小児科医はすぐに神経専門医および遺伝専門医に連絡をとりマディソンをみてもらい、MRIなどの一連の検査を始めました。
 遺伝子検査で、マディソンが不均衡転座をもっており、私がt(11;22)の均衡転座の保因者でもあることがわかりました。私の父、兄弟、娘、そして、姪もまた均衡転座の保因者でした。私たちは、マディソンの知的発達が遅延しており、正常な身体的能力が発達していることを示す指標となる反射神経をどれも持っていず、また、彼女はけいれん発作がおきやすい傾向があると告げられました。彼女の将来に期待することは暗やみにいるようで、困難でした。しかし、彼女の能力に到達点を定めることはできず、希望をあきらめていました。そのおかげで、彼女は、わたしたちの家族が今までに期待していた以上に成長しました。
マディソンの父グレッグは、彼女の第一の介護者であり、彼は彼女のために挑戦する目標を定めていました。彼女のために働き続けており、マディソンが目標に到達することを喜びとして、楽しんでいます。でもね、グレッグは家族が女性ばかりなので、平静を保つ為に趣味で大工仕事をします。今日は、マディソンが彼女の生活の中で大きな動機付けになっている半日幼稚園に通う日です。彼女は、言葉をしゃべりませんが、音楽が大好きで、特に手でジェスチャーをしながら歌を歌うことが大好きです。彼女の大好きなおもちゃは、ボールとシャボン玉です。そして、姉が大好きです。マディソンは、簡単な指示といくつかの身振りを理解することができます。また幸運にも、数本の耳のチューブと低体重以外には、マディソンは現時点までは、いかなる手術も必要なく、大きな健康問題もありません。マディソンは、2003年12月、4回目の誕生日の少し前に最初の歩行を踏み出しました。そして現在、その5カ月後、彼女はしばしば、歩行器なしで装具を付けて、フラフラする足取りではあるけれども、歩きます。彼女は私の知る中で、最も喜びと愛情に満ちあふれ、社交的で、しっかりとした子供です。
 
リサ
 
(文責:細羽、倉橋)
 
 
 
6.ヨシュア
 
母 ミシェル
 
2000年12月に長男のジョーダンが誕生した後、夫のアランと私は、より多くの子供が欲しいと決めていました。このことは私たちにとって、容易なことではありませんでした。私は、ヨシュアを出産する前に2回の流産をしました。
 
ヨシュアを2004年6月5日に通常の何も問題のない妊娠ののちに出産しました。陣痛が始まるとすぐ、私たちは近所の病院に行きましたが、そこでヨシュが逆子であることがわかりました。彼らは、私たちを帝王切開の予定にしましたが、2つの緊急の患者が入ったので、私はリストの末尾にされました。言うまでもありませんが、彼らが手術室を準備し始めるまでに、遅すぎて、ヨシュアを経膣分娩してしまいました。
 
ヨシュアは、生下時から呼吸困難がありました。私には恐怖はありませんでした。なぜなら、ジョーダンも同じ問題を抱えていたからです。私は、その問題について2度と考えることはありませんでした。ICUで挿管され、抜管に失敗した2日後、ヨシュアはトロントにある小児病院に搬送されました。病院に着くとすぐに、医師たちはありとあらゆる検査をしているようでした。ヨシュアの声帯は麻痺していたことがわかりました。彼らは、ヨシュアが逆子で生まれたからだと考え、声帯はいずれ治癒するだろうと考えました。彼は、とても低緊張だったので、さらなる検査をされました。その時に彼には過剰なマーカー染色体があることがわかりました。私は、遺伝専門医と話をして、ヨシュアの将来がどんなものであれ、いっさいの希望を与えてくれなかったことを覚えています。人工呼吸器を装着して5週間後、医師は、ヨシュに関して2つの選択肢を提案しました。気管切開術を行うかもしくは、人工呼吸器を取り去り、彼を他界させるか、というものでした。彼らの忠告は、彼を他界させることでした。彼らは、私たちに彼がどのような生活を送れるかわからない、と言わざるを得ないと話ました。見ること、聞くこと、話すこと、理解すること、歩くことなどができるかどうかわかりませんでした。
 言うまでもなく、2番目の選択肢は夫アランと私にとっての選択肢ではなく、私たちは気管開口術を選択しました。手術の直後、私たちは、あたかも新しい子供を授かったかのようでした。ヨシュアは、手術にはすごくよく反応しました。彼は、これまでわたしたちがみてきた中で、最も幸せそうで活発になりました。NICUで12週間過ごした後、私たちはようやく家に帰ることができました。ヨシュアは、現在15カ月で、私たちがこれまでに出会ったことのない最も回復力のある子供でした。彼は、両耳に補聴器を付け、呼吸のため気管切開を入れており、食べるためにはGチューブを使用していますが、彼は、理学療法士および作業療法士を印象づけました。彼は、日に日に強くなっていきました。彼は、まだひとりで座ることや体重をささえることができませんが、時間と手間がかかりますが、私は医師たちが今まで話してくれたこと以上のことを彼がするのをみることができます。私たちは、家族の愛とサポートがあるから、ヨシュアが家庭で成長していくと信じています。愛の力を決して過小評価してはなりません!!ヨシュアが奇跡を起こした証であり、私は、私の天使のために、毎日、神に感謝しています。
 
敬具
 
ミシェル
 
(文責:細羽、倉橋)
 
 
 
 
2011年12月19日月曜日
2013年2月26日火曜日