地名のナゾ “前後”
藤田医科大学の近くに、名鉄名古屋本線の前後(ぜんご)駅があります。
「前後」といえば、普通は「まえとうしろ」のことです。
それがなぜ地名になったのでしょうか。
この土地が桶狭間の古戦場に近いことから、地元には、合戦で討ち取られた首に結びつけた、いささか恐ろしい伝承があります。
桶狭間の戦いといえば、1560年、尾張に侵攻してきた今川義元の大軍(2万5000という)を、織田信長が少数の兵(2000という)で打ち破り、大将の義元を討ち取ったという戦いです。
伝承の一つは、この桶狭間の戦いの際、兵士の首が「前にも後ろにも」、いたるところに転がっていたので「前後」と呼ぶようになった、というものです。
また、討ち取った今川方の兵士の首を、勝利した織田方が、首実検のために「前後に」並べたことから生まれた地名だ、という話もあります。
名古屋市の図書館がまとめた地名調査に、これらの伝承が紹介されています。
もっとも、伝承が記録されていることと、その内容が史実であることとは別の話です。
そもそも、首実検とさらし首は、区別して考える必要があります。
首実検は、討ち取った相手が誰であるかを確認し、討ち取った者の戦功を判定するためのものです。
一方、さらし首は、人々に首を見せ、戦いの勝利をアピールする行為です。
桶狭間の戦いは正々堂々の勝負ですから、負けた側の兵の首を並べて見せしめにする、というのはちょっと解せません。
名前や身元を確認することに意味がある武将の首と、名も知られない雑兵の首とを一律に扱う、という点も妙なポイントです。
もちろん、戦場で多数の首が取られ、それらが一カ所に集められること自体は、考えられない状況ではありません。
しかし、集められた首は敵味方なく供養して「首塚」を作った、と続くのが定番なのに、そこからさらに、首をわざわざ前後に並べ、その並べ方が土地の名前になった、と説明するには、それを裏づけるなにがしかの強力な史料が必要です。
「前後」という地名があるから、首も前後に並べられたのだろう、と考えるだけでは、地名から物語を作ることになってしまいます。
とすると首の話は、桶狭間の戦いに結びつけられた土地の伝承にすぎない、そう受け止めるのが適切でしょう。
それでは、地名としての「前後」は、どのように説明されているのでしょうか。
『豊明市史総集編』121~122頁の記述を紹介した図書館の調査によれば、そのもとになったのは「前郷」という呼び名だということです。
江戸時代、この地域には間米(まごめ)村があり、そこから分かれた枝郷として、五軒屋・八ツ屋・三ツ屋という集落ができました。
もとの村、すなわち本郷である間米村の南に八ツ屋があり、さらにその南に五軒屋が位置していました。
そして寛文年間以後、この五軒屋を「前郷」と呼ぶようになったといいます。
つまり、「前郷」とは、もとの村から見て前にある集落、という意味になります。
その後、「ゼンゴウムラ」と呼ばれ、表記には「前後村」、さらに「善江村」という字も使われたとされています。
明治時代以後には、「ぜんごう」よりも「ぜんご」という発音が多くなったそうです。
「前後」という二文字を、最初から「まえとうしろ」の意味に解釈するよりも、「前郷」という集落名と、その読み方や表記の変化から考える説明です。
『角川日本地名大辞典』の愛知県の巻も、首の伝承を紹介しつつ、間米村の前の郷に当たることに由来すると考えています。
ただし、ここで、もう一つ疑問が残ります。間米村の南にある集落を、どうして「前」と呼ぶのでしょうか。
南という方角が、いつでも当然に「前」になるわけではありません。
この点について、『名古屋「駅名」の謎』(谷川彰英、祥伝社、2012年)は、東海道との位置関係から説明しています。
間米村の南には東海道が通っており、五軒屋はその街道に面していました。そのため、間米村から東海道の方へ向かったとき、前にある郷という意味で「前郷」と呼ばれたのではないか、というのです。
これは『豊明市史』による集落成立の説明に、街道との関係から解釈を加えたものといえます。
このように考えると、「前後」という地名の背景に見えてくるのは、戦場に並ぶ首よりも、親村から新しい集落が生まれ、東海道に向かって人々の暮らしが広がっていった歴史です。
首にまつわる話がいつ、どのように生まれたのかは、ここで参照した資料だけでは分かりません。
ただ、珍しい地名の字面と、近くで起きた桶狭間の戦いの記憶とが結びついて、恐ろしい由来話が語られるようになった可能性はあるでしょう。
地元に伝わる話としては興味深いものですが、地名の由来としては、「前郷」から「前後」になったという説明が有力なのです。
「前後」といえば、普通は「まえとうしろ」のことです。
それがなぜ地名になったのでしょうか。
この土地が桶狭間の古戦場に近いことから、地元には、合戦で討ち取られた首に結びつけた、いささか恐ろしい伝承があります。
桶狭間の戦いといえば、1560年、尾張に侵攻してきた今川義元の大軍(2万5000という)を、織田信長が少数の兵(2000という)で打ち破り、大将の義元を討ち取ったという戦いです。
伝承の一つは、この桶狭間の戦いの際、兵士の首が「前にも後ろにも」、いたるところに転がっていたので「前後」と呼ぶようになった、というものです。
また、討ち取った今川方の兵士の首を、勝利した織田方が、首実検のために「前後に」並べたことから生まれた地名だ、という話もあります。
名古屋市の図書館がまとめた地名調査に、これらの伝承が紹介されています。
もっとも、伝承が記録されていることと、その内容が史実であることとは別の話です。
そもそも、首実検とさらし首は、区別して考える必要があります。
首実検は、討ち取った相手が誰であるかを確認し、討ち取った者の戦功を判定するためのものです。
一方、さらし首は、人々に首を見せ、戦いの勝利をアピールする行為です。
桶狭間の戦いは正々堂々の勝負ですから、負けた側の兵の首を並べて見せしめにする、というのはちょっと解せません。
名前や身元を確認することに意味がある武将の首と、名も知られない雑兵の首とを一律に扱う、という点も妙なポイントです。
もちろん、戦場で多数の首が取られ、それらが一カ所に集められること自体は、考えられない状況ではありません。
しかし、集められた首は敵味方なく供養して「首塚」を作った、と続くのが定番なのに、そこからさらに、首をわざわざ前後に並べ、その並べ方が土地の名前になった、と説明するには、それを裏づけるなにがしかの強力な史料が必要です。
「前後」という地名があるから、首も前後に並べられたのだろう、と考えるだけでは、地名から物語を作ることになってしまいます。
とすると首の話は、桶狭間の戦いに結びつけられた土地の伝承にすぎない、そう受け止めるのが適切でしょう。
それでは、地名としての「前後」は、どのように説明されているのでしょうか。
『豊明市史総集編』121~122頁の記述を紹介した図書館の調査によれば、そのもとになったのは「前郷」という呼び名だということです。
江戸時代、この地域には間米(まごめ)村があり、そこから分かれた枝郷として、五軒屋・八ツ屋・三ツ屋という集落ができました。
もとの村、すなわち本郷である間米村の南に八ツ屋があり、さらにその南に五軒屋が位置していました。
そして寛文年間以後、この五軒屋を「前郷」と呼ぶようになったといいます。
つまり、「前郷」とは、もとの村から見て前にある集落、という意味になります。
その後、「ゼンゴウムラ」と呼ばれ、表記には「前後村」、さらに「善江村」という字も使われたとされています。
明治時代以後には、「ぜんごう」よりも「ぜんご」という発音が多くなったそうです。
「前後」という二文字を、最初から「まえとうしろ」の意味に解釈するよりも、「前郷」という集落名と、その読み方や表記の変化から考える説明です。
『角川日本地名大辞典』の愛知県の巻も、首の伝承を紹介しつつ、間米村の前の郷に当たることに由来すると考えています。
ただし、ここで、もう一つ疑問が残ります。間米村の南にある集落を、どうして「前」と呼ぶのでしょうか。
南という方角が、いつでも当然に「前」になるわけではありません。
この点について、『名古屋「駅名」の謎』(谷川彰英、祥伝社、2012年)は、東海道との位置関係から説明しています。
間米村の南には東海道が通っており、五軒屋はその街道に面していました。そのため、間米村から東海道の方へ向かったとき、前にある郷という意味で「前郷」と呼ばれたのではないか、というのです。
これは『豊明市史』による集落成立の説明に、街道との関係から解釈を加えたものといえます。
このように考えると、「前後」という地名の背景に見えてくるのは、戦場に並ぶ首よりも、親村から新しい集落が生まれ、東海道に向かって人々の暮らしが広がっていった歴史です。
首にまつわる話がいつ、どのように生まれたのかは、ここで参照した資料だけでは分かりません。
ただ、珍しい地名の字面と、近くで起きた桶狭間の戦いの記憶とが結びついて、恐ろしい由来話が語られるようになった可能性はあるでしょう。
地元に伝わる話としては興味深いものですが、地名の由来としては、「前郷」から「前後」になったという説明が有力なのです。
「七栗」という古い地名
藤田医科大学の第三教育病院は、三重県津市にある七栗記念病院である。
昭和62年(1987)に七栗サナトリウムとして開設され、現在はリハビリテーション医療や緩和ケアなどを特色とする病院となっている。
病院があるのは津市大鳥町424番地1。「七栗」という住所ではない。それでは、なぜ七栗記念病院というのだろう。
実は「七栗」は、このあたりに古くから存在した地域の名称である。
現在の大鳥町を含む一帯は、かつて「七栗郷」と呼ばれていた。
したがって七栗記念病院という名前には、現在の町名よりも古い地域名称が残されていることになる。
もっとも、「大鳥」という現在の地名も気になるところである。
大鳥は近世以来の村名として確認でき、のちに現在の大鳥町へとつながっていく。
ただし、「なぜ大鳥と呼ばれるようになったのか」という地名そのものの語源については、今のところ確かなことはわからない。
地名を考える際には、わからないものはわからない、としておくことも大切だろう。
さて、「七栗」という名前を聞いて、古典文学に詳しい人なら、何か思い出すかもしれない。
『枕草子』の伝本の一部には、名湯を列挙した有名な一節がある。
「湯は、ななくりの湯、ありまの湯、たまつくりの湯」
有馬温泉、玉造温泉と並んで「ななくりの湯」が挙げられている。
この七栗の湯が、現在の榊原温泉にあたると考えられている。
ただし、当時の貴族はめったに京都の外に出ることがなかったので、清少納言自身が七栗の湯を訪れて感嘆した、というわけではなさそうだ。
現在の榊原温泉は、七栗記念病院からもほど近い津市榊原町にある。
そして、この「榊原」という地名にも面白い伝承が残されている。
榊原温泉振興協会によれば、この地域は古く「七栗上村」と呼ばれており、一帯には榊が多く自生していたという。
およそ1500年前、継体天皇の皇女が斎王となった際、この地の榊を伊勢神宮へ献上するようになったため、「榊が原」と呼ばれ、それが「榊原」という地名になったと伝えられている。
もちろん、これはあくまで地元に伝わる地名由来の伝承である。
しかし伊勢神宮に近い土地であり、しかも斎王や伊勢参宮との関係が深い地域であることを考えると、いかにも伊勢らしい地名伝承ではある。
こうして見ると、「七栗」という病院名から、ずいぶん遠い昔まで話が広がっていく。
現在の地名は大鳥。その近くには榊原という地名があり、そこには古くから名湯として知られた温泉がある。
そして、それらを包み込む古い地域名称が「七栗」だった。
藤田医科大学七栗記念病院という名前は、単に病院につけられた名称ではない。]
現在の地図からは少し見えにくくなった、この土地の古い記憶を今に伝えているのである。
昭和62年(1987)に七栗サナトリウムとして開設され、現在はリハビリテーション医療や緩和ケアなどを特色とする病院となっている。
病院があるのは津市大鳥町424番地1。「七栗」という住所ではない。それでは、なぜ七栗記念病院というのだろう。
実は「七栗」は、このあたりに古くから存在した地域の名称である。
現在の大鳥町を含む一帯は、かつて「七栗郷」と呼ばれていた。
したがって七栗記念病院という名前には、現在の町名よりも古い地域名称が残されていることになる。
もっとも、「大鳥」という現在の地名も気になるところである。
大鳥は近世以来の村名として確認でき、のちに現在の大鳥町へとつながっていく。
ただし、「なぜ大鳥と呼ばれるようになったのか」という地名そのものの語源については、今のところ確かなことはわからない。
地名を考える際には、わからないものはわからない、としておくことも大切だろう。
さて、「七栗」という名前を聞いて、古典文学に詳しい人なら、何か思い出すかもしれない。
『枕草子』の伝本の一部には、名湯を列挙した有名な一節がある。
「湯は、ななくりの湯、ありまの湯、たまつくりの湯」
有馬温泉、玉造温泉と並んで「ななくりの湯」が挙げられている。
この七栗の湯が、現在の榊原温泉にあたると考えられている。
ただし、当時の貴族はめったに京都の外に出ることがなかったので、清少納言自身が七栗の湯を訪れて感嘆した、というわけではなさそうだ。
現在の榊原温泉は、七栗記念病院からもほど近い津市榊原町にある。
そして、この「榊原」という地名にも面白い伝承が残されている。
榊原温泉振興協会によれば、この地域は古く「七栗上村」と呼ばれており、一帯には榊が多く自生していたという。
およそ1500年前、継体天皇の皇女が斎王となった際、この地の榊を伊勢神宮へ献上するようになったため、「榊が原」と呼ばれ、それが「榊原」という地名になったと伝えられている。
もちろん、これはあくまで地元に伝わる地名由来の伝承である。
しかし伊勢神宮に近い土地であり、しかも斎王や伊勢参宮との関係が深い地域であることを考えると、いかにも伊勢らしい地名伝承ではある。
こうして見ると、「七栗」という病院名から、ずいぶん遠い昔まで話が広がっていく。
現在の地名は大鳥。その近くには榊原という地名があり、そこには古くから名湯として知られた温泉がある。
そして、それらを包み込む古い地域名称が「七栗」だった。
藤田医科大学七栗記念病院という名前は、単に病院につけられた名称ではない。]
現在の地図からは少し見えにくくなった、この土地の古い記憶を今に伝えているのである。
2026.9
「ばんたね病院」の「ばんたね」とは何だろう
藤田医科大学には、豊明市にある藤田医科大学病院のほか、名古屋市中川区に「藤田医科大学ばんたね病院」がある。
「ばんたね」とは、何とも不思議な名前である。この連載では藤田学園に関係する土地の地名について考えていくつもりなのだが、実は「ばんたね」は地名ではない。けれども藤田学園の歴史を考えるうえで面白い名前なので、今回は少し寄り道をして、この名前の由来について紹介してみたい。
ばんたね病院の前身は、昭和5年(1930)に開設された「財団法人坂文種(ばん・ぶんたね)報徳会病院」である。この財団の創始者が坂文四郎(ばん・ぶんしろう)という人物で、その妻が坂た祢(ばん・たね)であった。
文四郎は金融や不動産に関係する事業によって財を築いた人物だったとされるが、単に財産を蓄えるだけの人ではなかった。生前から社会事業に関心を持ち、自分の死後には、残った財産を社会救済のために役立てるようにとの遺志を残した。
文四郎が亡くなった後、その意思を受け継いだのが妻のた祢である。た祢は夫の遺志を実行するために財産の大半を提供し、大正14年(1925)、財団法人坂文種報徳会を設立した。
ここで大切なのは、「坂文種」という一人の人物がいたわけではないということである。創始者である坂文四郎と、その志を継承した妻の坂た祢。夫婦二人の存在が「坂文種報徳会」という名称の背景にある。
報徳会が特に力を入れた事業の一つが医療救済だった。当時は、現在のような国民皆保険制度は存在しない。病気になっても経済的な理由から十分な治療を受けられない人たちが少なくなかった。そこで昭和5年、そうした人々を救済することを目的として坂文種報徳會病院が開設されたのである。
その後、報徳会は医療だけでなく、保育や育英、社会福祉などにも事業を広げていった。そして昭和46年(1971)、藤田学園が医学部を設置するにあたり、報徳会は病院の敷地と建物を提供し、病院の運営を藤田学園に移した。こうして「ばんたね」は藤田学園の歴史の一部となった。
現在の正式名称は「藤田医科大学ばんたね病院」である。「ばんたね」という柔らかな響きだけを聞けば、何か古い地名のようにも思える。しかし、その背後には、明治・大正期に財を築いた坂文四郎と、その遺志を実際の社会事業へと発展させた妻た祢の物語があった。
地名ではない。それでも「ばんたね」という名前には、この地域で人々を助けようとしてきた人たちの歴史が刻み込まれているのである。
「ばんたね」とは、何とも不思議な名前である。この連載では藤田学園に関係する土地の地名について考えていくつもりなのだが、実は「ばんたね」は地名ではない。けれども藤田学園の歴史を考えるうえで面白い名前なので、今回は少し寄り道をして、この名前の由来について紹介してみたい。
ばんたね病院の前身は、昭和5年(1930)に開設された「財団法人坂文種(ばん・ぶんたね)報徳会病院」である。この財団の創始者が坂文四郎(ばん・ぶんしろう)という人物で、その妻が坂た祢(ばん・たね)であった。
文四郎は金融や不動産に関係する事業によって財を築いた人物だったとされるが、単に財産を蓄えるだけの人ではなかった。生前から社会事業に関心を持ち、自分の死後には、残った財産を社会救済のために役立てるようにとの遺志を残した。
文四郎が亡くなった後、その意思を受け継いだのが妻のた祢である。た祢は夫の遺志を実行するために財産の大半を提供し、大正14年(1925)、財団法人坂文種報徳会を設立した。
ここで大切なのは、「坂文種」という一人の人物がいたわけではないということである。創始者である坂文四郎と、その志を継承した妻の坂た祢。夫婦二人の存在が「坂文種報徳会」という名称の背景にある。
報徳会が特に力を入れた事業の一つが医療救済だった。当時は、現在のような国民皆保険制度は存在しない。病気になっても経済的な理由から十分な治療を受けられない人たちが少なくなかった。そこで昭和5年、そうした人々を救済することを目的として坂文種報徳會病院が開設されたのである。
その後、報徳会は医療だけでなく、保育や育英、社会福祉などにも事業を広げていった。そして昭和46年(1971)、藤田学園が医学部を設置するにあたり、報徳会は病院の敷地と建物を提供し、病院の運営を藤田学園に移した。こうして「ばんたね」は藤田学園の歴史の一部となった。
現在の正式名称は「藤田医科大学ばんたね病院」である。「ばんたね」という柔らかな響きだけを聞けば、何か古い地名のようにも思える。しかし、その背後には、明治・大正期に財を築いた坂文四郎と、その遺志を実際の社会事業へと発展させた妻た祢の物語があった。
地名ではない。それでも「ばんたね」という名前には、この地域で人々を助けようとしてきた人たちの歴史が刻み込まれているのである。
2026.8
【参考文献】
- 坂文種報徳会編『財団法人坂文種報徳会50年の歩み』坂文種報徳会、1975年。
- 宇都宮みのり「坂た祢(ばん・たね)の社会事業とその歴史的意義——社会事業形成期における坂文種報徳会の設立過程に焦点を当てて——」『社会福祉研究』27、愛知県立大学、2025年。


